「チーム・テイオー」的テイオー物語

運命のいたずらか、ヒサトモの遺志か

当初、シンボリルドルフの配合相手とされた馬は母「トウカイナチュラル」

ではなく、その姉のオークス馬「トウカイローマン」でした。

 

しかし、トウカイローマンの現役続行が決まってしまったため、

ピンチヒッターとして選ばれたのが未出走のまま繁殖入りしていた母ナチュラルでした。

 

ルドルフの初年度相手は、数も相手も厳選して選ばれていたのだと

彼の死後知ることとなりますが、

”オークス馬”の花嫁は皇帝ルドルフにふさわしいという理由で

選ばれていたのかもしれません。

 

良い馬なのに何故か未出走、それが母ナチュラルでした。

彼女はレースで走ることが叶いませんでしたから、

子供たちへ夢を託したことでしょう。

 

レースに出て、走り、勝つこと、そして、

祖先にあたる悲運のダービー馬「ヒサトモ」の血を引く一族の繁栄を夢見て。

  

そして母ナチュラルは1988年4月20日、

皇帝ルドルフ、ヒサトモの意志を継承する仔馬を産み落とします。

それが「トウカイテイオー」です。

 

 

ダービー馬の片鱗

とねっこのテイオーは、いわゆる馬格があって見栄えの良い馬ではなく、

大きな流星をもつ、キュウリに割り箸を刺したようだと表現する方も多いほど、

ひょろひょろっとした仔馬でしたが、

恐ろしいまでの柔軟性、バネの強さには誰もが驚くほどでした。

 

絶対に届かないだろうという位置に止まっているアブを追い払うにも、

身体をグニャリと動かして、叩き落としたり、

離乳後に母が恋しくて大きな柵を飛び越えたり、

しくじって側溝へハマった時も、その柔軟性のおかげで無傷で済んだ、など

明らかに他の馬とは違う素質の片鱗を見せるようになっていました。

二風谷へ育成へ入ったときに言われた言葉、

「ダービー馬が来た」はあまりにも有名なお話です。

 

そして、意志の力も大変強く、

自分が納得しなければ決して応じない性格の持ち主で、

知らない人に無口をつけさせない、動こうとしないなど、

身体能力に加え、精神力、賢さも兼ね備えていたのでした。

 

 

デビューからクラシック~休養まで 

1990年12月1日に中京競馬場にてデビューし、一番人気に応えて優勝。

テイオー伝説の幕がついに上がりました。

 

パドックを周回する際にみせるぐにゃぐにゃした歩き方には誰もが驚き、

のちに”テイオーウォーク”と称されることになります。

 

その後、シクラメンステークス、若駒ステークス、若葉ステークスと連勝。

皇帝ルドルフの初年度産駒にして、クラシックへの有力候補として名乗りをあげました。

 

1991年クラシック初戦の皐月賞、大外枠からのスタートにも関わらず、

早めに抜け出し楽々と勝利を収めます。

父ルドルフに続く、無敗の皐月賞の誕生です。

 

そして続くダービーでも大外枠からのスタートで勝利し、

大外枠でも、どんな不利がテイオーにあっても、

テイオーには叶わない、皆にそう言わしめたレースとなりました。

 

世代に敵なし。

父ルドルフに続き3冠制覇も夢ではなく現実味を帯びてきた矢先、

テイオーの骨折が判明。

最後の三冠レース、菊花賞への出走は叶いませんでした。

 

戦線から離脱するも、無敗での2冠制覇が評価され、この年の

「年度代表馬」、「最優秀4歳牡馬」、「最優秀父内国産馬」に選出されました。

 

復帰と挫折 

翌年1992年の大阪杯から復帰したテイオーは、

新たに、鞍上に父ルドルフの手綱もとった岡部騎手を迎え、

華々しい復帰戦となりました。

持ったままでの楽勝、テイオー伝説第二章の幕開けを予感させるレースとなりました。

 

「地の果てまでも走れそう」、岡部騎手の言葉はあまりにも有名で、

嫌がおうにも、天皇賞(春)への期待を抱かせるムードが漂っていました。

 

しかし、天皇賞でテイオーの前に立ちはだかったのは

”長距離の申し子と呼ばれることが一族の宿命”だと言わんばかりの

「メジロマックイーン」でした。

 

”世紀の対決”と言われた勝負は、メジロマックイーンの勝利で終わります。

テイオーは初めて敗北するとともに、再び骨折が判明して戦線を離脱することとなりました。

 

復帰に向け、第二のふるさと二風谷にて調整をしていたテイオーでしたが、

9月に帰厩してすぐに風邪を引くというアクシデントに見舞われます。

天皇賞(秋)を目前にして、調整に狂いが生じてしまいました。

 

「背水の陣、ギリギリの調整」松元調教師はそうおっしゃっいました。

 

そうは言っても、今度は長距離のレースではないし、メジロマックイーンもいない、

その程度の狂いでも、テイオーの能力があれば大丈夫ではないか?と思うファンは

多く、復帰初戦にも関わらず、堂々の一番人気を背負うことになりました。

 

しかし、結果は7着に終わりました。

 

ダイタクヘリオスとメジロパーマーが競り合うことで、

殺人的ハイペースになったことで先行勢は総崩れ、それを尻目に笑ったのは、

最後方から追い込んだ人気薄のレッツゴーターキンでした。

 

テイオーは終わってしまったのか?

ファンの心中は複雑なものとなりました。

 

奇跡のジャパンカップ

1992年より国際GIレースとして認定されたジャパンカップ。

その元年を祝うかのように、豪華なメンバーが揃いました。

 

イギリスからは二冠牝馬「ユーザーフレンドリー」(欧州年度代表馬)、

イギリスダービー馬「クエストフォーフェイム」、同「ドクターデヴィアス」、

オーストラリアからは「レッツイロープ」(豪州年度代表馬)、

フランスからはアーリントンミリオンの勝者「ディアドクター」など、

世界的名馬たちが集結し、「ジャパンカップ史上最強のメンバー」と称されました。

 

このメンバーでは、さすがのテイオーも厳しいだろうという評価で、

単勝人気は生涯初の5番人気に甘んじていました。

 

レース道中は、4,5番手あたりを追走していましたが、

第4コーナー手前から進出して行き、残り200メートルのところで、

外から抜け出すと、先を行くオーストラリアの「ナチュラリズム」に

馬体を合わせてゆき、壮絶な競り合いとなりました。

この200メートルが、どんなに長く感じたことでしょう。。。

 

いつもは涼しい顔をして駆け抜けていったテイオーが、

初めて見せた闘争心剥き出しの表情だったのではないかと思います。

 

必死の叩き合い、一進一退の攻防は、

ゴール直前でテイオーが交わして勝負あり。

 

実況の声もそのすさまじい勝負を物語るかのように上ずっていて、

岡部騎手も珍しくガッツポーズをみせてくれました。

 

こうしてテイオーは見事に復活し、

日本競馬史上初の国際GI優勝馬となると共に、

父シンボリルドルフ以来7年ぶりの日本馬の優勝、

そして史上初の親子制覇の偉業を達成しました。

 

 

まさかの有馬記念そして再びの休養

ジャパンカップの劇的な勝利のおかげで、

誰もが有馬記念の勝利は間違いないと思っていました。

スポーツ紙各紙も、こぞってテイオーの調子は絶好調だと報じ、

テイオーの勝利は走る前から決まっているかのような雰囲気がありました。

 

しかし、直前になって、突然の騎手変更と、何やら暗雲が立ち込めます。

 

レースでは、当然ながら一番人気に押されるも、

結果は生涯最低の11着に終わってしまいました。

誰もが首をかしげる結果です。

 

のちに判明した事実として、テイオーは虫下しの下剤を

レース直前まで服用しており、何らかの影響がでたのではないか?とのことでした。

 

 

年が明け1993年となってから、有馬記念後に筋肉を痛めていたことが判明、

宝塚記念での復帰を目指して休養にはいります。

 

3月に帰厩し調整が続くも、レース直前になって再びの骨折が判明。

再び長い休養が始まります。 。。

 

現役時代 「テイオーは死なず 363日ぶりの有馬記念」

テイオーが休養中に、競馬界の勢力図はすっかり変わっていました。

本格化したことで主役に躍り出た「ビワハヤヒデ」、ダービー馬「ウイニングチケット」、

二冠馬「ベガ」、黒い刺客「ライスシャワー」、1993年JC馬「レガシーワールド」など

順調に来た馬たちの成長は著しいものがありました。

 

テイオーといえども、一年ぶりのレース、

鉄砲で勝てるほどGIは甘くはない、誰もがそのように評価していたでしょう。

 

しかし、最後の直線で誰もが驚きの光景を目にすることになります。

先行抜け出しして、そのまま押し切る「ビワハヤヒデ」の得意パターンに

入り、今回も「ビワハヤヒデ」が持って行くだろうなと誰もが思い始めていた頃、

それを猛烈に追い上げる馬が一頭現れます・・・。

 

「テイオーだ!」、なんと、テイオーが競り合ってきたのです!

ゴール前の競り合いを制し、見事に優勝しました。  

 

テイオーは不死鳥のごとく、蘇ったのです。

363日振りのGI制覇は未だに破られぬ大記録となりました。

 

この前人未到の偉業が評価され、JRA賞特別賞を受賞しました。

 

再びの骨折そして引退

1994年、テイオーは現役を続行し、再び天皇賞(春)を目標として

調整が行われていました。しかし、復帰戦の大阪杯を前にして、筋肉痛が発生。

その後、再びの骨折が判明し、4度目の休養に入ります。

 

天皇賞(秋)での復帰を目指して調整をしていたものの、

テイオーは調教を嫌がるようになりました。

 

もう今までのようには走れない、そんな姿を見せることになるなら身を引きたい。

テイオーはとても賢い馬でしたので、そう思ったのかもしれません。

 

調整の遅れが影響し、天皇賞には間に合わないことが明らかとなった頃、

引退が正式に発表されることとなりました。

 

 

10月23日、東京競馬場にて引退式が行われました。

当日は、重賞レースが無いのにもかかわらず、10万人を超える観客が集まり、

テイオー人気の高さが証明されたのでした。

ダービー優勝時のゼッケン「20」番を身につけ疾走するテイオー。

 

テイオーの夢は、子供たちへと受け継がれることとなりました。

 

 

なお、この日のメインレース「東京スポーツ杯」にて、

皐月賞の時に一緒に走った「シャコーグレイド」が3年10ヶ月振りに勝利をあげ、

テイオーへのはなむけだと話題になりました。

 

父ルドルフに続き、「顕彰馬」に選出されました。

 

種牡馬時代~現在

1995年より社台スタリオンステーションとして種牡馬生活が始まりました。

 

今でこそ多くのダービー馬を抱える大スタリオンですが、

当時としては、テイオーが初めてのダービー馬でした。

 

種牡馬生活はとても恵まれたとはいかなかったものの、

3頭のGI馬を輩出しました。

 

・トウカイポイント(マイルCS)

・ヤマニンシュクル(阪神JF)

・ストロングブラッド(かしわ記念)

 

他にも活躍馬が多数おりますが、

戦績よりも、感動を与えてくれる子供たちが多いのが特徴的です。

 

そして、今、この奇跡の血脈の継承者の登場を

すべてのテイオーファンが待ち望んでいます。

 

                         (文章:サブリーダー Michika)